岩田清志は1953年7月に生まれ、本郷という山奥の小さな村で育ちました。男4人女1人の三男で、家から学校まで山の中を1時間以上かけて通学していました。
清志の父 岩田金文は、大工の頭領で、大工の仕事を求め広島市内へ出稼ぎに出ていました。
父金文は「他の子と同じようにしていたら、駄目だ」と厳しく教え、幼少の頃は家の手伝い、成長すると仕事の手伝いをさせるようになりました。
18歳になり鉄鋼業の仕事についた清志は、鉄鋼技術を学び広島木工という木工業に職を移します。広島木工は、轆轤加工を得意としていましたが、どの従業員よりも木について幼いころから親しんでいたため技術の習得も早く、鉄鋼業で学んだ刃物作りなどの技術があったことから数年で工場長へと昇進しました。
ここで後に生業とする「熊野筆」と出会います。数年後、広島木工の社長より独立を打診されたことから、1991年創業を決意します。
岩田清志は1953年7月に生まれ、本郷という山奥の小さな村で育ちました。男4人女1人の三男で、家から学校まで山の中を1時間以上かけて通学していました。
清志の父 岩田金文は、大工の頭領で、大工の仕事を求め広島市内へ出稼ぎに出ていました。
父金文は「他の子と同じようにしていたら、駄目だ」と厳しく教え、幼少の頃は家の手伝い、成長すると仕事の手伝いをさせるようになりました。
18歳になり鉄鋼業の仕事についた清志は、鉄鋼技術を学び広島木工という木工業に職を移します。広島木工は、轆轤加工を得意としていましたが、どの従業員よりも木について幼いころから親しんでいたため技術の習得も早く、鉄鋼業で学んだ刃物作りなどの技術があったことから数年で工場長へと昇進しました。
ここで後に生業とする「熊野筆」と出会います。数年後、広島木工の社長より独立を打診されたことから、1991年創業を決意します。
1992年2月に創業した「イワタ木工」は、創業まで苦難の連続でした。
土地探しでは、やっと条件に合った場所が決まったものの養鶏場の跡地であったため、悪臭を放ち、そのまま工場としての利用は出来なかったため、すべて自分たちで解体を行わざるを得ませんでした。
工場建設も自ら行いました。建築では幼いころからの知恵と腕が活躍する事となりました。
工場の金属の柱は高額であったため、電力会社から中古の電柱の丸太を譲り受け工場の柱とし、焼却炉などは、廃業した会社から譲り受け、配管ダクトも廃工場で自ら解体し約4ヵ月で工場を建築しました。
1992年2月に創業した「イワタ木工」は、創業まで苦難の連続でした。
土地探しでは、やっと条件に合った場所が決まったものの養鶏場の跡地であったため、悪臭を放ち、そのまま工場としての利用は出来なかったため、すべて自分たちで解体を行わざるを得ませんでした。
工場建設も自ら行いました。建築では幼いころからの知恵と腕が活躍する事となりました。
工場の金属の柱は高額であったため、電力会社から中古の電柱の丸太を譲り受け工場の柱とし、焼却炉などは、廃業した会社から譲り受け、配管ダクトも廃工場で自ら解体し約4ヵ月で工場を建築しました。
清志と幸枝夫婦は1女2男に恵まれました。
当時9歳だった長男の知真はこの頃より解体から建設の手伝いや、創業開始より家業を手伝い始め、2歳違いの次男勇真も兄とともに家業を盛りたてました。
知真は長男であったことから、父から厳しく手ほどきを受け、持ち前の負けず嫌いと頑固さも相まって中学生の頃には、ひとかどの職人に成長していきました。
また、次男の勇真も同時期に簡単な手伝いを行いながら、木工のいろはを教えこまれていきました。
清志と幸枝夫婦は1女2男に恵まれました。
当時9歳だった長男の知真はこの頃より解体から建設の手伝いや、創業開始より家業を手伝い始め、2歳違いの次男勇真も兄とともに家業を盛りたてました。
知真は長男であったことから、父から厳しく手ほどきを受け、持ち前の負けず嫌いと頑固さも相まって中学生の頃には、ひとかどの職人に成長していきました。
また、次男の勇真も同時期に簡単な手伝いを行いながら、木工のいろはを教えこまれていきました。
1992年熊野筆「書道筆」の軸の製造を開始。
当時「熊野筆」は書道筆の中では高く評価されており、日本の伝統的文化として長く続いていました。
小学生の習字や書家なども多く、需要が常に高かった事と、轆轤の面白さに魅了された清志は、自身の表現を書道筆に見出しました。
1992年熊野筆「書道筆」の軸の製造を開始。
当時「熊野筆」は書道筆の中では高く評価されており、日本の伝統的文化として長く続いていました。
小学生の習字や書家なども多く、需要が常に高かった事と、轆轤の面白さに魅了された清志は、自身の表現を書道筆に見出しました。
2004年けん玉の製造を開始。
当時流通していた精度の低いけん玉と一線を画したプレイヤーの使い勝手を追求し、±0.2mm の精度と表面研磨の細かさ、鏡面塗装の美しさを重視した新しいコンセプトのけん玉「夢元(むげん)」を製作。
多くのプレイヤーから支持を得、大会では上位入賞者を独占するけん玉に成長しました。
2004年けん玉の製造を開始。
当時流通していた精度の低いけん玉と一線を画したプレイヤーの使い勝手を追求し、±0.2mm の精度と表面研磨の細かさ、鏡面塗装の美しさを重視した新しいコンセプトのけん玉「夢元(むげん)」を製作。
多くのプレイヤーから支持を得、大会では上位入賞者を独占するけん玉に成長しました。
2008年メイクブラシの製造を開始。
熊野筆は書道筆だけではなく「メイクブラシ」にも力を入れてきていたため、イワタ木工にもメイクブラシの依頼が入るようになりました。
またこのころから、アミノ塗装からウレタン塗装に代わる時期でもあり、けん玉で培った塗装技術により、パールやメタリック塗装などで他社とは違う美しさを追求したメイクブラシの製造を開始しました。
2008年メイクブラシの製造を開始。
熊野筆は書道筆だけではなく「メイクブラシ」にも力を入れてきていたため、イワタ木工にもメイクブラシの依頼が入るようになりました。
またこのころから、アミノ塗装からウレタン塗装に代わる時期でもあり、けん玉で培った塗装技術により、パールやメタリック塗装などで他社とは違う美しさを追求したメイクブラシの製造を開始しました。
2009年「夢元」の製造を中止後、プレミアがつくようになり海外のオークションサイトでは50倍以上の高値で売買され、「伝説のけん玉」と呼ばれるようになりました。
技の向上のための道具として「精度の高い製品」「美しい製品」を求めるプレイヤーが増え、多くの海外・国内のプレイヤーが「伝説のけん玉 夢元」の復活を望みました。
多くの声に押される形で2012年にけん玉の製造を再スタート。単純に以前のけん玉を再度製作するのではなく、先端取替技術などを取り入れた競技性に特化したけん玉や、けん玉の今までにない可能性を提案するといった新しいコンセプトのブランド「夢元無双/ MUGEN MUSOU」として、製作を再開しました。
2009年「夢元」の製造を中止後、プレミアがつくようになり海外のオークションサイトでは50倍以上の高値で売買され、「伝説のけん玉」と呼ばれるようになりました。
技の向上のための道具として「精度の高い製品」「美しい製品」を求めるプレイヤーが増え、多くの海外・国内のプレイヤーが「伝説のけん玉 夢元」の復活を望みました。
多くの声に押される形で2012年にけん玉の製造を再スタート。単純に以前のけん玉を再度製作するのではなく、先端取替技術などを取り入れた競技性に特化したけん玉や、けん玉の今までにない可能性を提案するといった新しいコンセプトのブランド「夢元無双/ MUGEN MUSOU」として、製作を再開しました。
2015年「株式会社イワタ木工」の設立。
イワタ木工の創業当時は、主に2人で作業していた工場も、息子の2人が入社してからは、けん玉、メイクブラシと商品数も売上も順調に伸び、雇用する従業員数も8名ほどになりました。
そのため、工場の中は狭く、機械の配置を変えるために事務所を解体したりなど安全に仕事を進める事が困難になっていました。
また、取引先の製造を拡大に対応する為、清志ではなく知真主体で「株式会社イワタ木工」を設立し、新社屋を建築する事になりました。
2015年「株式会社イワタ木工」の設立。
イワタ木工の創業当時は、主に2人で作業していた工場も、息子の2人が入社してからは、けん玉、メイクブラシと商品数も売上も順調に伸び、雇用する従業員数も8名ほどになりました。
そのため、工場の中は狭く、機械の配置を変えるために事務所を解体したりなど安全に仕事を進める事が困難になっていました。
また、取引先の製造を拡大に対応する為、清志ではなく知真主体で「株式会社イワタ木工」を設立し、新社屋を建築する事になりました。
2017年 パリのメゾンオブジェへ初出展。
イワタ木工の時より、世界へプレイヤーに向けたけん玉を発信していましたが、けん玉の価値と木材の価値を向上させるため、世界一の見本市といわれる「メゾン・エ・オブジェ パリ」に出展する事を決めました。
「遊べるオブジェ(playable objet d’art)」をコンセプトにしたけん玉「MUGEN MUSOU objet d’art」を発表。またけん玉にとどまらず、インテリアオブジェに挑戦、培った技術を世界に発信しています。
2017年 パリのメゾンオブジェへ初出展。
イワタ木工の時より、世界へプレイヤーに向けたけん玉を発信していましたが、けん玉の価値と木材の価値を向上させるため、世界一の見本市といわれる「メゾン・エ・オブジェ パリ」に出展する事を決めました。
「遊べるオブジェ(playable objet d’art)」をコンセプトにしたけん玉「MUGEN MUSOU objet d’art」を発表。またけん玉にとどまらず、インテリアオブジェに挑戦、培った技術を世界に発信しています。